タイと日本、2国だけアジアで植民地化されなかった独立国であるから仲がいいという説ありますよね

 

ということがあったので調べてみました。これを踏まえてタイ人スタッフにまた聞いてみようかなと

山川の詳説世界史だとこれだけしか書いてない・・

タイのチャクリ(バンコク)朝は、イギリス、フランスとの間に勢力均衡策をとり、ラーマ5世(チュラロンンコーン)は近代化政策を推進して独立を維持し続けた。

明治維新と同様のタイミングがラーマ5世の即位と、改革のタイミングだから、19世紀半ば。そのタイミングで脅威はあったものの、近隣の諸国を割譲しながら交渉し続けたと前、NHKのそのとき歴史は動いたでみた。

 

うーん、でももうちょい、その背景を追加で検討している人の意見を見てみる

 

四 表面上枢軸国、実質連合国

ここからは私見である。タイはかなり連合国寄りの土壌があったと考える。なぜなら上記のチャクリー改革以来、タイはイギリス・フランスに大量の留学生を送り込んできたからだ。

事実、これが原因となって1932年にフランスの留学生であったプリーディと、のちの首相ピブンが立憲革命をおこし、タイの立憲君主制への移行を実現した。言い換えると軍部主導の国家への移行である。はじめ私はピブンが親日的だったから日本と日泰攻守同盟条約(1941)を結んだのかと思っていたが、まったくそんなことはなく、ピブンはタイ国内で高まる反日的な声と自由タイ運動を黙認していた。そもそも一緒に立憲革命を起こしたプリーディが自由タイ運動を起こしたのだから、当たり前と言えばそうだ。

タイは枢軸国に加わったにも関わらずアメリカに宣戦布告しなかったのも、連合国寄りだったからと考えればつじつまが合う。なにせ宣戦布告通達を拒否した駐米大使のセーニーは自由タイ運動の創始者なのだ。ではなぜ日本軍に協力したのか。タイは単に奪われたフランス領インドシナの奪還を目指していて、フランスがナチス・ドイツに侵攻されると好機とみてタイフランス領インドシナ紛争を起こす。タイの軍艦トンブリーがフランス軍に撃沈されたのを口実に、ベトナム(フランス領インドシナ北部)に進駐していた日本軍と協力して戦争に踏み切ったのだ。

私はこの理由を、ラオス・カンボジアを枢軸国側に奪われることを恐れたからと考える。決して日本と協力したわけではなく、それまでフランス領インドシナを犠牲とすることでとりあえず自治を保っていたタイが、ラオス・カンボジアを枢軸国側に支配されることで完全に自治を失い、植民地化されることを危惧したのではないか。だからこそタイは逆に自分たちから枢軸国に加わるという手段に出た。

結局タイにとって一番悩ましい存在はフランスで、ピブンは敵の敵は味方、という論理ではなく、あくまでタイの防衛のために日本と一時協力したのだ。フランス領インドシナをどうにかしたい、と考えた結果日本についたけれどすぐに反発し、次にアメリカにつき、ところころ態度を翻す外交を展開したわけだ。タイは親日的、というのは戦後日本がアメリカ側についたからではないだろうか。

参照ブログ

 

うむ、なるほど、連合国側との関係も維持しながら自分の目的のために日本といったん手を組みながら、うまく采配して、維持したとか。これは1900年台の話であることとひとつの書いた人の意見だけどね。

 

てか自由タイ運動ってなんなのよ?

 

と調べていくうちにわからない言葉が出てくるので調べてみた。

自由タイ運動タイ語: ขบวนการเสรีไทย 音写:カブアンカン・セーリー・タイ)は、1941年太平洋戦争開戦から1945年終戦までの日本軍がタイ王国領土に進駐したのに抗したタイ人による地下レジスタンス運動。自由タイ運動は、連合国に、タイ国内の重要な軍事情報を提供し、インドシナ半島における連合軍の作戦遂行に貢献し、戦後、タイ王国が主権を保つことができた重要な要素のひとつとなった。

1941年12月8日太平洋戦争開始と同時に始まるタイ王国への日本軍の進駐を受けて、首相プレーク・ピブーンソンクラーム(以下、ピブン)は、12月21日に日本との間に日泰攻守同盟条約を締結、翌年1月8日のイギリス軍による首都バンコクへの爆撃を契機に、1月25日アメリカ合衆国イギリス宣戦布告を行い、タイは枢軸国となった。

ピブンの日本よりの政策は当初国内において支持を得た。タイ軍は、1826年ヤンダボ条約英語版でイギリスが植民地支配権を確定したシャン州回復を目標として、日本のビルマ侵攻戦をともに戦った。タイ軍は、さらに1893年仏泰戦争英語版で失ったラオスや、1909年英泰条約英語版[3]で失ったマレーの領域(クランタン州ケダ州トレンガヌ州プルリス州)等を回復した。

1944年7月、ピブンは辞職し、代わって文民であるクアン・アパイウォンが就任した。爆撃は継続し、1945年4月14日B-29が、バンコクの主要な発電所2箇所を破壊した、その一方で、自由タイのネットワークは、落下傘で潜入する連合軍兵士を救助するのに協力している[5]。クアンは政治的にセーニーに近いものであったが、この政権で最も影響力を有したのは、反日的見解を日増しに強くしていったプリーディーであった。これらの政治的有力者により、戦争末期にあっては、連合国の工作員はバンコクへ自由に出入りできる状況となっていた[6]。終戦にいたって、タイ政府は戦時下における日本との全ての協定について無効を主張した。

wikipedia

 

日本と手を組むとともに、内部では反日のプロバガンダ。最終的には連合国に、日本とは仲間じゃないよーという理由付けをすることが出来たもの。なるほど。

 

てか調べれば調べるほど・・日泰攻守同盟条約って、けっこうがっつり組んでるけど・・

 

日泰攻守同盟条約(にったいこうしゅどうめいじょうやく)(昭和16年12月27日条約第20号)は、大東亜戦争太平洋戦争)中に大日本帝国タイ王国の間に結ばれた同盟に関する条約である。

大日本帝国と同じく独立を保ってきたタイは、同じアジア人として日本の政策にはおおむね好意的で、満州事変後のリットン調査団の報告によって、国際連盟における満州国の合否判断の際も投票を棄権し、満州国も国家として承認してきた。また、元帥プレーク・ピブーンソンクラームによる独裁体制が固められ、フランス領インドシナに日本軍が進駐すると、かつてフランスに奪われた領土を奪還すべく出兵、駐留フランス軍と紛争となった(タイ・フランス領インドシナ紛争)。翌年に日本軍の介入で講和が成立し、これによってタイは旧領土のほとんどを回復できたため、日本への協力姿勢を強めた。

日本とタイの停戦後、日泰攻守同盟条約が締結されることとなった。条約では、アジアにおける新秩序建設、相互の独立主権の尊重・相互の敵国または、第三国との交戦の場合の相互同盟国としての義務を果たすことなどが明記された。1941年12月21日に公布され、タイ政府は日本の戦争へ積極的な協力姿勢を内外に示した。

条約は1945年(昭和20年)9月2日、日本及び連合国の降伏文書調印に伴うタイの敗戦により破棄された。ピブーンは失脚し、タイ新政府は攻守同盟条約を「日本の軍事力を背景に無理やり調印させられた」ものとして、その違法性を連合国に訴え、1946年(昭和21年)から1947年(昭和22年)にかけて、回復した旧領土をフランスに返還した。その結果、タイ国民は連合国による裁きを免れた。日本に対しては、1951年(昭和26年)の日本国との平和条約において戦争強制の賠償を要求、日本は高額な賠償金を支払うことを約束して国交を回復したが、戦費として日本がタイから借りた20億バーツ(当時10億ドル以上)は、日本の悲惨な状態に同情した使節団によって2500万ドルまでに引き下げられた。また、ピブーンは逮捕、投獄されたがすぐに釈放され、後に首相に返り咲いた。

 

うーん、論点がちょっとずれてきた。独立国の話を書いてたと思ったんだけど。外交のうまさって言ったらそれまでだけど、いやそれが外交か。心情よりも国を守ることが大事。

独立の経緯を調べてみたらいろいろ出てきた。日本との関係としていいも悪いも、まー知ってる方がすっきりしていいね

 

仲いいー、単純に好き、”日本大好きですー!”っていうのと歴史とはまた違うなと。

そういや、探してる中でこんなブログのこんなタイトルを見つけてしまった・・

すごいぞ日本! アジアを解放した日本!1

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日本礼賛、各国の声とかが書いてあるんだけど。

我々日本人が学んでいる歴史ってアジアに対しては悲観的、あまりいいことをしてないって歴史の方が多いと思う。この主張自体が正しいかは現状の私の知識レベルでは主張できないけど、少なくとも上記の今までの経緯含めてタイの国において日本との関係の歴史をどのように教えて、伝えて、理解しているのかは知りたいですね。

 

さあ、国の視点の比較を加えてみよう。そうすると歴史は多面的に、他国からも見えるのでおもしろい。

そんな初心者の考え、以上

 

 

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