2年タイにいるけど、そういえば歴史とか山田長政の話してる人聞いたことないな

 

当たり前すぎるから?アンテナが立ってないから?まー、最近気になっています。wikipediaめったに使ってなかったのに今回結構見てます。確実性は不明だけど・・

山田長政

略歴

出生は駿河国の富厚里とされるが、同じく駿河国の馬場町、伊勢国尾張国とする説もある。沼津藩主・大久保忠佐に仕え、六尺(駕籠かき)をしていたが、その後1612年朱印船長崎から台湾を経てシャムに渡った[1]。後に、津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わり、頭角を現しアユタヤー郊外の日本人町の頭領となった。その後、アユタヤ国王より高官に任ぜられ王女と結婚したという伝説が生まれたが、タイ側の記録に該当する人物が見られないことから、その歴史的実像は明らかでない部分が多い。

 

なんか、この王女と結婚した説、よく言われてるんだけど、不明なんだ。気になる。

ただ、相当の地位を与えられていたなら王族と縁故関係になってないと無理だろうと思うのでどっちだろう。タイの人の歴史認識を聞いてみよう

 

生涯

スペイン艦隊の二度に渡るアユタヤ侵攻をいずれも斥けた功績で、アユタヤー王朝の国王ソンタムの信任を得て、シャムの王女と結婚。第三位であるオークヤー(あるいはプラヤー・セーナーピムックออกญาเสนาภิมุข)という官位欽賜名を授けられ、チャオプラヤー川に入る船から税を取る権利を得た。

ソンタム王の死後、長政はソンタム王の遺言に従い、シーウォーラウォン(エーカートッサロット王の隠し子と云われ、後のプラーサート・トーン王)と共同でチェーター親王を王に即位させた。しかし、チェーター王はシーウォーラウォンに不審を抱き排除しようとして失敗し、シーウォーラウォンに処刑された。

その後、チェーターティラートの弟のアーティッタヤウォン王が即位したが、あまりに幼すぎるので、官吏らはそのころチャオプラヤー・カラーホームスリヤウォンに昇進していたシーウォーラウォンに王位につくように願った。長政はこれに頑固に反対したために、宮廷内で反感を買った。この時、当時アユタヤの貿易を独占していた日本人勢力と対立関係にあった華僑の勢力の圧力が宮廷内に及び、長政は六昆(リゴール、ナコーンシータンマラート王国)の防衛を理由にシーウォーラウォンによって左遷された。

長政は1630年パタニ軍との戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの膏薬を塗られて死亡した。毒殺はカラーホーム(シーウォーラウォン)の密命によるものとオランダの史料は記している。その後、ナコーンシータマラートの知事は息子のクン・セーナーピムックが引き継いだが、内部対立があり同じ日本人傭兵によって殺され、長政の死と同じ年に、プラーサートトーン(シーウォーラウォン)は「日本人は反乱の可能性がある」とし、アユタヤ日本人町は焼き打ちされた。

なんか、当初はシーウォーラウォンと共同でいろいろ画策してたので、関係性悪化ということで、いろいろだめになってしまっている。。そもそもの二人の関係性はどうなんだろ?と考えてみると面白い。

 

とりあえず、こんな情報を基にタイのスタッフにもその長政の存在について聞いてみよう

 

と思う。明日はアユタヤ日本人街について書いてみよう。てか今度近いから行ってみようと思いました。

アイキャッチ画像

Pocket