歴史が好きな人でかつ、未来をとらえようとしている、そんな人に憧れる

 

歴史、受験勉強でも勉強してないし、個人的にも興味なくて全然知らないんですよね。歴史が好きな人と話をするときも、「過去の話はいいから未来を考えようよ」みたいな超アンチョクな思考でいました。

 

今から未来への線をとらえるなら過去知らないと無理だな

 

という当たり前の気づき。歴史を学んでいる人はみんな最初からそう思ってるのかもすいません、イキってて。でも、そんなイメージで考えていかないといままでモチベーション全くなかったからなかなか触手が動かなくて。自分整理のために書きます。

ちょっと振り返れば最近読んだ本「未来に先回りする思考法 佐藤航陽」のレビュー記事でもそんなこと書いてたな。でも忘れてしまった。

 

いまはタイにいるのでちょうどいい、タイと日本との関係、歴史について改めて学ぼう

 

そう昨日より思っています。もちろん海外の人から見た日本の歴史も。あと、「文化」なぜそのような文化となったのか?「その文化の背景」というのをつなぎあわせて考えていきたいと思っています。海外と日本、歴史という事実と、文化という国固有の事柄を理解するためにも。

ということでタイについて、毎日小学生レベルから細々とアップしていこうと思います。本も買おう

 

まずはwikiの日泰関係について転記してみる。(ただの転記でも目に残るので一応やってみる)

合ってるか合ってないかは調べながら進めてみよう。そんな議論の端になるためのアウトプットでもあります。

前史

1388年、将軍足利義満のときに、暹羅船が日本に1年間滞在したという記録がある[1]。また、14世紀にタイ中部で興ったアユタヤ朝は次第に勢力を伸張させ、1362年アンコール朝を吸収、1438年にはタイ北部のスコータイ王朝を滅ぼしタイを統一した。このころから既に日本人の一部はタイに入植しており、アユタヤには日本人集落も形作られるようになった。1477年には琉球尚真がタイと交易を開いた記録が残っている

日本人町の形成[編集]

アユタヤ王国の日本人兵士

タイでの日本人の活動が活発化したのは、ビルマからの攻撃に悩まされていたアユタヤ王ナレースワンが日本人傭兵を大量に採用してからである。傭兵の数は600人に達し、彼らは首都郊外のアユタヤ日本人町に定住するようになった。1592年から朱印船貿易が行われるようになると町は活況を呈し、ソンタムがアユタヤ王につくと日泰間の友好関係も促進された。

日本はタイ製の火器・銃器などを輸入し、馬などを輸出した。また、豊臣氏徳川氏が天下をとることによって合戦が起こらなくなった日本では、それまで戦に参加することで日々の糧を得ていた層が、大量の浪人となっていた。彼らは海外に活躍の場を求め、日本を出国していった。欧州各国の東インド会社や、東南アジア諸国は、戦闘経験の豊富な日本人を傭兵として雇うようになり、各地に日本人町が作られた。タイもまた、例外ではなく多くの日本人が移り住んだ。

1621年には城井久右衛門の後を継いだ山田長政が首領に就任、最盛期を迎え、1500人もの民間人と800人の傭兵が居住していたとされている。1628年には山田長政がタイの最高の官位であるオークヤーに任じられるなど、政治面でも大きな力を持つようになったが、1629年プラーサートトーンがアユタヤ王につくと王家の政争に巻き込まれ1630年に町を焼き払われることとなり、日本人は散り散りになった。2年後の1632年には再び日本人が集まり町が再興されたがかつて程の勢力は得られず、1635年に日本で鎖国令が出されたこともあり、人口も400人前後にとどまった。プラーサートトーンはその後日本との交易を望み、1636年に日本に使節を送り通商を求めたが拒否されている。以後250年ほど日泰間の国家的な交流は断絶することとなった。日本人町はその後次第に現地人との混血が進み、1800年代に入ると消滅した。

 

山田長政、有名だけど、調べたことない。今日はこんな動画見てみたり

 

いずれはタイの人にも日本との関係についての歴史認識とかを聞いてみたい、そのための勉強準備

 

って感じですかね。アウトプットをきっかけに少しずつ。

アイキャッチ画像

Pocket