ひだりききのエレンが好きです。才能について考えることが好きです。朝から急に天才の語源が気になって調べていました。人と異なる、比類なき才能があること。という定義でした、天性の、才能の略であると勝手に解釈しました

これが突出しているから、天才と呼ばれ有名になっていく、または人がそれを発見して応援していく。と人は考えます。

そうでしょうか?

私はそうは思いません。天才は天性の才能ですが、それを自らが自覚したり、人が発見して伝えたりしないと無意識でその活動をするとは限りません。よしんば自覚したり、発見したりしたとしても、それを肯定して、継続して応援してくれる環境でなければのびのびとその才能を開花させる、フォーカスさせることはできないなと思います。自覚だけでも厳しい、人間はそんなに強くないから。人から否定されてまでなにかやろうとは思わないと感じます。

そういえば、半年くらい前、岡本太郎が急に気になって彼の本をむさぼるように買いました。買う中で生涯のパートナーであった岡本敏子さんの本を見つけ彼女の著書もすべて買いました。その中の、愛する言葉という本を読んで感動しました。

仮に岡本太郎が天才と呼ばれる1人の人だと仮定した場合、大きな情熱と愛でそれを支援してくれる岡本敏子さんがあって初めてその天才が自らを肯定して、進むことができたのだろうと私は推測し、感じました。主観ですけどね。それほど、壮絶で情熱的な愛する言葉の数々が並んでいました。

本来であれば恋愛とか愛に関する言葉の数々なんですが、天才の話とリンクして急に思い出しました。

その意味で、天才はいいなー。とか天才になりたい。才能があればいいなーというのは。まずはその天性の才能の自覚→これはなかなか個人でこれだ!なんて人はいないので→自覚のための他者からの発見→他者からの強力な才能の肯定というプロセスが必要なのではないかな?と想像していました

そのくらい才能というのは見つけるのが難しく、また自覚して続けるのが難しく、肯定し続けるのが難しいのかなと思っています。私はそのような活動が好きでその人の才能を把握したり、掘ってみたりすることが好きです。

天才でありたいとすべての人が思うかはわからない、才能があると思いたいかわからない、すべての人が持っているとはいわない、だけどそれは自分だけでは見つけずらい、才能は自分が当たり前にできることだからわからない、才能を人のために使うとそれは他にはない比類なき自分にある魂、オリジナルなものであり他者を圧倒するとともに、人を助け、社会を形作る、かっこいい才能でなくてもいい。

人に対してこの言葉を書きながら自分に対してもリマインド。

そんな朝5時半、隔離期間あと5日です。

Pocket