短期的に思いついたことを、ある程度の形と文章形式でまとめて吐き出すことが楽しいです。

熟考できないこと、さらに深堀して文字を洗練させることができないことに悲観的に思ってみたこともあった。twitterのような短い文に関して瞬発的に記載するのには短すぎて熟考するには考えるのが面倒くさくて、ちょうどよい長さと距離感がブログだった。

でも、短期的なアウトプットという文章を書くことは、逆の面から人にいいねといわれることもあった

「毎日ブログ書いててすごいね」といわれたことがあった。でも素直に受け止められなかった、自分にとってすごいねと思わなかったから、あーやればできますよと返した。やればできるといわれても、やりたくないといわれるかもしれない、やりたいけど理由があってできないのもあるかもしれない

でも、どうぞやってもできないと思いますけどね、ということって別にないのかなと思ってみたり最近しています。やらないの理由が多すぎる。やらないことの理由を考えたりする人が多すぎる。やらないことを理路整然と説明する人が多すぎる。その意味で深く考えないということがプラスの面から光をあたって見える面もある。

直近、アーティストの方と話す機会があった。

その人が言葉で発信している文を見るのだが、その凶暴なまでの思想、情熱が文字から読み取ることができてなんか楽しく思う。文字であらわさないとそれはわからないし、その人の見た目、空気だけで思想を深堀したり推測するほど自分は卓越していないし、それをやりたいとも思わない。

深堀していてもしなくてもアウトプットされていないとその人の思考を自分は理解することはできないし推し量ることもできない。

だけど文にしてくれれば読める、感情を感じたり、背景を考えたりすることができる。楽しい。自分向けじゃなくていい、脳を見せたり、可視化したりしているだけだから。そうやってコミュニケーションをとろう、誰かに対してアウトプットしているわけじゃない、その人も特定の誰かに対してアウトプットしているわけじゃない、それは脳の表層化であり、思想だから。

でもtwitterじゃ足りない、散文的であり、少ないブロックによる回数が多すぎる。思想を文に落とし込む140文字以上の文章であってほしい、うまくかけていてもかけていなくてもそのくらいのボリュームが心地いい。本なら最高。

そんな鏡のような自分のアウトプットと人に求める思考・思考の表層化を記載

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