哲学を考える入り口になった本:山口周 ・ニュータイプの時代

読書して感じたこと、気になった部分をアウトプットしてまとめるのを2024年またやろうと思います。前に記載したメモを改めて読み返して、落とし込む。コメントをしてみる。

年始は2019年に読んだ山口周さんのニュータイプの時代、友人にすすめられて読んだのですがうなづく部分が当時多々ありました。自分心をバージョンアップしなければいけないと思いました。

NEWTYPE ニュータイプの時代 山口周

本書のメッセージをまとめれば、以下のようになります。20世紀の後半から21世紀の初頭にかけて高く評価されてきた従順で論理的で勤勉で責任感の強い、いわゆる優秀な人材は今後オールドタイプとして急速に価値を失っていくことになるでしょう。一方このようなオールドタイプに対置される自由で直感的でわがままで好奇心の強い人材ニュータイプが今後は大きな価値を生み出し評価され本質的な意味での豊かな人生を送ることになるでしょう。

⇒これを読んだとき、なんかとてもうれしくワクワクした覚えがある。一方で現実とのバランスのとり方、考え方を作る、またいまの現代とのギャップに悩んだりもします。


この本を手に取ったような方は薄々気づいていることだと思いますが20世紀の後半から21世紀の前半まで50年ほどの間望ましいとされてきた思考行動様式の多くは今日急速に時代遅れのものになりつつあります。多くが影響していた論理とサイエンスが、ものが過剰になり正解がコモディティー化していく世界において有効性を失いつつあることを指摘した上で今後は美意識とアートを武器にする新しい人材ニュータイプが求められていると言う主張をしましたが、これはまさに価値喪失の源泉が問題を解決しものを作り出す能力から問題を発見し意味を創出する能力へとシフトするしていることを受けてのものです。
したがってものが過剰になる一方で問題が希少になっている現在の社会において求められる人材要件がその真逆であるものが希少で問題が過剰であったかつての社会において求められる人材要件と大きく異なるのは当たり前のことなのです。しかし人間のマインドはとても保守的なので多くの人はあいも変わらず偏差値に代表される正解を出す能力をその人の優秀さを示す物差しだと信じていまだに拝め続けています。この認識のねじれが社会の様々な所で悲劇と混乱を巻き起こしています。

⇒上記のように理解はできるのですが、行動が伴っていない、というか日々の仕事、活動にアジャストがまだできていないのが現状です

物質的な欠乏と言う課題がほぼ解消されてしまった世界において人はどのように生きる意味を見出していけば良いのでしょうか?
この問題をおそらく歴史上最初に指摘したのはドイツの哲学者ニーチェでした。ニーチェは150年も前にすでに現代人が意味の喪失と言う問題に陥りニヒリズムに捉えられることを予言しています。ニヒリズムとは何でしょうか?ニーチェは次のように定義しています。

すなわち何のためにと言う問いに対して答えられないことだと。つまり意味が失われた状態こそがニヒリズムの本質だと言うのですね私たちはものが過剰で意味が希少な時代を生きていますものがその過剰さゆえに価値を撲滅させる一方で、意味がその希少性ゆえに価値を持つと言うのが21世紀と言う時代です。このような時代にあってあいも変わらずに役に立つものを生産し続けようとするオールドタイプは価値を失うことになる一方で希少な意味を世界に対して与えるニュータイプは大きな価値を見出していくことになります。

⇒ニーチェをこの本で知り、超人と末人という言葉を知った。いつの時代も、大事なのは哲学と、マインドと、自己との対話なのだなというのを改めて認識した覚えがある。

ものが過剰にあり問題が必要となっている社会では仕事の本来的な需要は減少するはずですしかし私たちの労働時間を100年前とほとんど変わっていません。
20世紀に活躍したイギリスの経済学者ケインズは1930年にとした論文で100年後には週15時間働けば十分に生きていける社会になってくると予言しています現在まさに生産性が向上し社会に物的上が蓄積されることで労働需要は減っていくだろうと考えたわけですが、しかしこの予言は実現せず私たちは100年前と変わらない時間を労働にさいています。求められるニーズが一定であれば生産性の向上に伴って投入されるべき労働量は減少するはずですが一向にそうなっていないこのロジックはどこに破綻があるのでしょうか?結論から言えば私たちの多くは実質的な価値や意味を生み出すことがないくそ仕事に携わっていると言うことになります。

⇒これは直近でいうとIT化と労働時間との考え方でも不思議な点。忙しいというよりは忙しくしていたいというマインドも問題ではと思います

問題の希少化を招いたのは構想力の衰え

オールドタイプが与えられた課題を解くことにたけている一方でニュータイプはまだ誰も気づいていない問題を見出しそれを社会に向けて提起します。なぜニュータイプは誰も気づいていない問題を見いだすことができるのでしょうか?この論点を考察するにあたってそもそも問題とは何かという点について考えてみましょう。問題解決の世界では問題を望ましい状態と現在の状況が一致していない状況と定義します。望ましい状態と現在の状態に差分があることこれを問題として確定すると言うことです。したがって望ましい状況が定義できない場合そもそも問題を明確に定義することができないと言うことになります。

⇒構想力、ワクワク。ここに未来がありそうです。下記の課題の発見も同様。解決は機械・ITがやってくれればいい。

革新的な解決策より優れた課題
イノベーションの停滞の原因は問題の希少化、構想力の衰退と言う問題やまたイノベーションの停滞と言う状況にもかかわっています。

昨今日本企業の多くがイノベーションを人の経営課題に掲げ様々な取り組みを行っています。しかしいろんなところで指摘している通り筆者はそれらの取り組みのほとんどが茶番だと思っています。何故かと言うとそれらの取り組みにおいて解決したい課題=アジェンダが設定されていないからです。当事者に対して課題はなんですかと尋ねるとまさにイノベーションの実現が課題だと言われることが多いのですがこれはイノベーションを本質的に誤解しているオールドタイプの典型的な回答です。イノベーションは課題にはなりえませんなぜなら課題を解決するための手段がイノベーションだからです。手段であるイノベーションを目的として設定すればその上で行われる営みは本番ではない、従って茶番と言うしかありません。イノベーションと言う手段が目的にすり変わってしまっていると言うのは今日のビジネスを取り巻く不毛と混乱を助長しています。

⇒イノベーションは目的でなく手段です。構想は美しさへのこだわり、非効率、美意識に時間を使わないとうまくいかない。

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